真光寺について
真光寺由来
真光寺は、もと兵庫輪田の崎島「光明福寺」に創まり、宗祖一遍上人が念仏勧進の全国遊行の旅の途中、この地に立ちより1289年(正応2)8月23日観音堂に於いて臨終しました。
その後兵庫の信者達によって、荼毘(火葬)に付され、霊骨を五輪塔に納められ、お木像を御影堂に祀り、その遺徳を崇めました。
その後二祖真教上人は、伏見天皇に奏して「真光寺」の寺名を拝受し、播州守護職赤松円心より寺領を寄進され、七堂伽藍は荘厳を極め、寺地は三十八町四方に及んだといわれています。
次いで後醍醐天皇より「西月山」の山号を勅賜され、南朝の皇族「尊観法親王」が住持されてからさらに念仏の大道場として繁栄しました。
その後再三の兵禍や火災に遭遇し、その都度再建されました。近年に至っては、1945年(昭和20)3月、第二次世界大戦で空襲に遭い全山消失してしまいました。現在の本堂は昭和37年再建されたものです。更に1995年(平成7)1月の阪神・淡路大震災により御廟所、観音堂、鐘楼が倒壊し、1998年(平成10)5月に再建復興しました。
観音堂の御本尊はその昔、輪田岬の海底より霊光を放っているのを、漁師が引上げてみると観音様の御像であったので、お祀りしたのが始まりであると伝えられています。
また戦前、山門の横に池があり、石亀が多数放生されていたので、通称「亀の寺」と親しまれてきましたが、都市計画のため境内が縮小され、現在は池はありません。
なお、一遍上人御廟所の五輪塔のある玉垣内は文化財として県史跡に指定されています。
寺宝として絵巻物紙本着色『遊行縁起』10巻(国重文指定)を所蔵しています。
一遍上人御歌 「旅ごろも 木の根かやの根いづくにか 身の捨てられぬところあるべき」
年表
西暦 | 和暦 | 事項 |
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1301 | 正安3 | 8月15日 二祖真教上人兵庫に至り一遍上人御影堂で13回忌を勤め、自ら調声する |
1323 | 元亨3 | 『遊行縁起』「宗祖・二祖絵伝」完成する |
1318~1339 | 後醍醐天皇より「西月山」の山号を勅賜される 播州守護職・赤松円心より寺領寺地を寄進される |
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1370 | 建徳1 | 尊観法親王(後の十二世遊行上人)真光寺に住す |
1377 | 天授3 | 尊観法親王、兵庫真光寺より山形光明寺に移る |
1401 | 応永8 | 東西三十七町南北三十八町塔頭二十八輪番。七堂伽藍荘厳を極む。のち兵禍にあう |
1519 | 永正16 | 春、遊行二十四世不外上人兵庫真光寺の祖廟に詣でる |
1613 | 慶長18 | 8月23日 遊行三十四世燈外上人、兵庫真光寺に一遍上人忌を修し同寺僧衆を督励する |
1676 | 延宝4 | 3月18日 遊行四十二世尊任上人、兵庫祖廟前に石灯籠一対を寄進される |
1688~1704 | 元禄年間 | 真光寺祖廟改修する |
1707 | 宝永4 | 伏見天皇より「真光寺」に寺号の勅額を賜わる |
1713 | 正徳3 | 賞山、真光寺に於て「誓願文標指鈔」を梓行する |
1714 | 正徳4 | 10月23日 賞山真光寺で「一遍上人絵詞伝直談鈔」を著わす |
1715 | 正徳5 | 真光寺重層阿弥陀堂再建される |
1716 | 享保1 | 7月23日 遊行四十九世一法上人、真光寺留錫中、祖像の厨子を寄進する |
1748 | 延享5 | 2月21日 遊行五十一世賦存上人、真光寺留錫中宗祖像の厨子及び光背を寄進 |
1760 | 宝暦10 | 真光寺青銅造大毘盧舎仏参道に安置される |
1772 | 明和9 | 真光寺観音堂・熊野堂・鐘楼再建なる |
1774 | 安永3 | 俳人佐々木泉明、遊行柳植樹する |
1804~1818 | 文化年間 | 真光寺書院再建される |
1827 | 文政10 | 真光寺大門改築される |
1836 | 天保7 | 11月23日 兵庫真光寺を足下寺と定む |
1837 | 天保8 | 3月17日~23日 宗祖五百五十回忌を真光寺にて修す |
1888 | 明治21 | 3月 真光寺河野往阿、寺内に大悲学校を開創し、近隣の児童を教育する |
1912~1926 | 大正年間 | 真光寺客殿虚空蔵堂建立される |
1919 | 大正8 | 真光寺本堂改修、塔頭(陽徳・竜蔵・修善・宝積・常徳)五院となる |
1945 | 昭和20 | 3月17日 第二次世界大戦の戦災にあい真光寺全焼する 真光寺檀家もほとんど戦災にあい兵庫区(神戸市)全域が焦土となる |